ゴミから神様  岡部あおみ(美術評論家)


 掛け軸の観音菩薩を消して、その消しゴムの滓で再構成した2010年の仏様『カンノンダスト』は入江早耶の代表作である。見事な10x6x4センチの菩薩像は眼を疑うほどで、その超絶技巧は血筋が絶えた江戸の根付職人の再来さえを思わせる。

 この作品について入江は、衆生救済のために33に変身する観音菩薩の破壊の神、大自在天(ヒンドゥー教のシヴァ神)をとりあげ、次なる天地創造のために末世を破壊する神と説いている。破壊から再創造への循環はそのまま、入江自身の制作の手法でもある。だがその1年後、東北で3.11の大震災と津波が起き、放射能汚染による膨大なゴミが集積する中、入江は2012年の個展では、「あらゆる衆生を救うため」菩薩の光彩を強化した。

 ドガ、ピカソ、ゴーギャン、ベーコン、安田曾太郎、岸田劉生らの名作のポストカードや新聞、ロンドンの骨董市で見つけた匿名画家の作品写真などを選び、そこに描かれた人物を消して人体像や頭部を再現する今回の「見出されたかたち」展の彫刻群は、一見、アプロプリエーションやシミュレーションの系譜の引用ととらえられがちだ。しかし忘れてならないのは、入江の3次元のフィギュアが、どこにでもある複製を活用している点である。デジタル社会では、絵葉書や新聞などの物質自体、読み終え、また痛めば、すぐにゴミ箱入りとなる「モノ」でしかない。

 ヴァルター・ベンヤミンがアウラの消失を説いたこれら複製芸術を素材として、入江は気の遠くなるほどの時間をかけてアナログな作品を生み出す。もとのオリジナルを参照しても名作との対話や彼女なりの解釈を介して、ときにはユーモラスな手作り品が創出される。原画を創造した芸術家による意図や構図などに幽閉されてきたモデル達を解放し、蘇生させたミニチュアの個体は、観客とより親密なコミュニケーションをとるはずだ。それはコピーとして軽んじられ捨てられる運命の大衆向け消費物を拾い上げ、異なるアウラを授ける行為に等しい。芸術の複製イメージを無意識に集団消費してきた観衆は、入江独自のDIY(Do it yourself)の実践を身近に知ることで、既成概念となった日常のシステムからの脱却の可能性を示唆される。ジャン・ボードリヤールが分析した消費社会の状況以上に、コピペ(コピー&ペイスト)が容易になった現代社会において、それは一種のカウンターカルチャーへの誘いでもある。つまりあらゆるものに神を見た原始時代のようにすべてを素材として、既製品を規定外に変容させ再流用させる。その表現の自由はコード化された消費の受動性を解き放つ。

 千円札や一万円札などの紙幣に印刷された立志伝中の人物を消して立体化する作品を、入江は「紙幣の価値を上回る美術作品としての価値を得る」制作と述べ、資本主義社会の根幹をなす貨幣価値をパロディ化した。天文学的な芸術の市場価値と安価な複製写真のグローバルな普及に挑んだ今回の新作は、両者のギャップを埋める抵抗運動でもあろう。

 入江は破壊を通した蘇生や復元によって、膨大なゴミ化が進行する現代において、滅びゆくものへ慈愛に満ちたまなざしを注ぎ、そのやむなき時代の流れにささやかながら竿をさす。それは瓦礫から立ち上がった都市、広島で生きる入江の思想なのである。


*個展「見出されたかたち」(東京画廊、東京、2013年)について執筆していただきました。


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エビスダスト  藤井匤(キュレーター)


 (第一期)この部屋の中に残されていた一枚のお札から作品は始まる。宮島大町地区の氏神である荒胡子神社のもので、11月20日のお祭りに際して、この地区に暮らす人々によって毎年つくられる。今回、作者はエビスの背負う鯛の部分を消しゴムで消し、その消しカスで鯛の立体物をつくり出した。この行為は、絵に描かれたもの(二次元)をリアル(三次元)へと位相を転位させるものであると同時に、消しカス=ゴミから美術作品へという両極的な価値の転位を導くものである。

 (第二期)消しゴムでお札の絵を消し、消しカスで立体をつくる作品は、前回の鯛に扇子が加わるという進展を見せる。だが、変化はそれだけに留まらない。工事現場に貼られたお札が、周囲に対して強い視差を生み出してくる。通常ではあり得ない組み合わせゆえに、「貼る」という行為の積極性が浮き上がってくるのだ。概念性の強い作品だが、工事中という流動的な状況も相まって、作者の消す行為や立体化する行為、制作のプロセスが前回よりも意識されることになる。

 (第三期)二次元の画像を消していき、三次元の彫刻をつくる行為は、ほとんど全てが立体へと移り変わった。描かれた願望の、リアルなものへの移行が完結したということができる。造形的には、一方向からの視点で成立する平面と違い、立体物では無数の視点を想定しなければならない。描かれていない部分を想像力で補わなければならないのだ。それは、着想したものを社会の中で実現する際に、多様なアプローチが必要となることの暗喩として理解することもできる。


*会期が三回に分かれた特異な展覧会「Between Scrap and Build」(宮島町、広島、2011年)に出品した《エビスダスト》について執筆していただきました。


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牛ソープ  新川貴詩(美術ジャーナリスト)


 本展で入江早耶は、牛のいる光景をつくり出す。山上には神戸市立六甲山牧場があり、山麓では酪農も盛んなこのエリアにふさわしい作品である。だが、本物の牛を用いるわけではない。既製品の石鹸を牛の形に削り出すのだ。成牛もいれば仔牛もいて、寝姿や立っているポーズもある。日用品を活用したアート作品の例は多いが、彼女の場合、手の技が冴えを見せるところに特質がある。また、ユーモラスで軽やかなアプローチながらも、牛の脂肪分が石鹸の原材料であるという製造プロセスに着目した奥深さも併せ持っている。


*「六甲ミーツ・アート:芸術散歩2010」(六甲山、兵庫、2010年)に出品した《牛ソープ》について執筆していただきました。


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